2025/02/01 11:30

僕は、露天風呂が好きだ。
だから、スーパー銭湯(健康ランド)なるものによく行く。
小説家よろしく、
本当は露天風呂付き客室の温泉宿にでも籠れれば最高なのだけれども、
そんな気概もなく、
近場のスーパー銭湯をいくつか巡る日々。
ただの大浴場的なものではなく、
温泉質の露天風呂があるところに行く。
温泉質は出た後の身体の緩み方が、格段に違う。
造りとしては、最近は檜などの木風呂より“岩風呂”を好む。
背中と頭をもたれかけた時のあのゴツっとした感じが、
自然の中で発見した天然の露天風呂みたいな感じですごく良い。
風呂の趣向はさておき、
近頃、浴場で人の「気」や「エネルギー」というものを捉えやすくなった気がする。
僕は別に、
人のオーラが見えたり、霊感が強かったりとかは一切ない。
ただなんとなく、
気配というか、雰囲気というか、
その人が持つ「自力」的なものを、感覚的に捉えられるようになってきた。
それを、とりあえず「気」や「エネルギー」という表現としている。
普段身につけている装備が全て取り払われた裸一貫の風呂場、
かつ、自ずとリラックスする環境だからこそ、
その人本来の「在る」姿が現れ、捉えやすくなっているんだと思う。
この感覚というものが、なかなか面白い。
意気揚々とした若者が、やたらフワフワな羽のように軽々しく感じたり。
見た目ひょろひょろの爺さんが、
妙にズシっと重みのある佇まいを醸し出していたり。
単純に人生で積み重ねたものの質の差かな?とも思ったりもするけど、
不思議な事に、中学生くらいで、その「気」に貫禄を持つ者までいたりする。
飾ることのできない、その人の「質」というものがハッキリと出ている。
別に優劣をつけるつもりも無いけど、
何故か、“自分もまだまだだな” と思わされる。
どんな「気・エネルギー」を宿した自分でいたいのかを、
明確にしたことは無かったけれど、
「不動の気」とでも言おうか、
外に惑わされない落ち着きのあるエネルギーでありたい。
どうすべきか?
は、今は考えない。
“捉え始めた感覚” を楽しむことにする。