2025/02/07 11:30

新しいNIKEの靴を買った。
とてもリーズナブルなランニング用シューズ。
ランニング用だけど、ランニングはしない。
散歩に使う。
僕の足の形は、横広型でくるぶしの位置が低い典型的な日本人の形と言ってもいい。
だから、割と細めで底が深い型であるNIKEの靴は、実は昔から足に合わない。
でも今回、人生で初めてNIKEの靴を買った。
試着の際はほとんど気にならなかったけど、
歩き始めると、
左のくるぶしが靴に当たり、「痛み」が現れてきた。
靴ひもを緩めたり、右足に重心を傾けたりして
なんとか痛みを消そうとしてみる。
痛みを感じた時、人は自然とその部位を「庇う」行動をする。
痛みを取り除きたい。
庇う行為の対象は、“身体の痛み”だけじゃない。
“心の痛み”も庇う。
そして、“自分の痛み”だけでもなく、“他人の痛み”も。
他人の「痛み」を「庇う」のは、どうしてだろう?
ただ単に、
友達だから? 恋人だから? 家族だから? 大切な人だから?
それとも、そうすることで何か自分に利益があるから?
ニュースで見た全く知らない人の悲劇に対しても、
その人を擁護したり、加害者を非難したり、
とにかく庇おうとすることさえある。
他人を庇う時、
それはその人を「自分の一部」と見ているからだと思う。
その人が辛い時、自分も痛みを感じている証拠。
なんとかしてあげたい、庇ってあげたい。
その人の痛みを取り払う為のように見えるけど、
その出来事によって、自分に入り込んできた小さな痛みを取り除くためにやっている。
価値観が伴う感情移入。
その痛みは、既に自分の痛み。
その他人は、自分。
同じように、他人が痛みを伴っている時、全く庇うつもりがない場合もある。
その人、そしてその出来事とは価値観の違いがあり、関心がない。
自分は別、と切り離しているということ。
「みんなが自分」だと捉えられるようになれば、もっと優しい世界になる。